デビューした頃は先の事なんか
なにも考えていなかった。
デビュー当時はお盆に故郷に帰った時などの宴席で、
酒の入ったそう親しくない親戚のおじさんに
「基佳、お前将来どうするんだ?
何時までもそんな事してられないだろう」と言われた。
心配なのか嫌みなのかよく分からない言葉に
僕は曖昧に笑ってやり過ごす。
そのくせ東京の音楽業界の事を聞きたがる。
地方のアマチュアバンドがメジャーデビューすることは
そんな簡単な時代じゃなかった。
大学生になって、いくつかの音楽サークルに顔を出し始めた。
サークルの先輩山木氏が作リ貯めていた曲を僕が歌い始めた。
自己紹介のないまま、初対面の日からそれは始まった。
良くも悪くも不純物なして「唄が繋げる関係」がそこにあった。
その関係は解散まで続いた気がする。
すすきののライブハウスで唄い始めた。
大家の佐藤君らと3人で結成したフォークロックバンドで
CSN&Y やガロのコピーを唄っていた。
「ノーム(濃霧)」というバンド名で
深い霧で先がまるで見えないという意味だった。
アマチュアコンサートに出場し始めた。
サークルの定例コンサート、他校の学園祭のゲスト。
おそらく偶然?東京の音楽関係者が地元の女友達に連れられて
僕のバイト先のライブハウスにやって来た。
休憩中の僕に名刺を見せ、もしもやる気があるなら
プロデビューしないか?と言う事だった。
この日は私ひとりのステージで、ギター抱えた弾き語り。
私のギターテクニック?を目の当たりにして、
よくぞその気になったもんだ。即答で「お断り」をいれたのだが、
後日、山木氏のことも紹介した。
東京の音楽関係者は山木氏の楽曲の素晴らしさを知り、
猛攻撃をかけてきた。
ほだされたというか、2~3年の東京暮らしも悪くないかなぁ。
と言うのと、全国で何処まで自分は通用するのだろうか?
という好奇心とも相まって大学4年生の春「休学届」を提出した。
デビューした頃は先の事なんか
なにも考えていなかったんだ。
その後のことは、ここで語るには長すぎる・・・。
47年を振り返るなら、
素晴らしい出会いの中で結成した「ふきのとう」に感謝。
そして、残念ではあったけれど「ふきのとう」の解散も
いまの細坪になって行くためにはとても重要なことだった。
その後、二郎さん、ヤッサン、潤子さん、NSP、三浦王子・・
それから、信頼するスタッフのみなさん・・・
たくさんの素敵な出会いがあったからこそ
いまもこうして唄い続けているのだろう。
旧友の都留、河合、久保田、関、妹尾・・・
彼らと、もうすぐ次のミッションが始まる。
47年目の初日、この日を一緒に祝ってくれる皆さん。
最近はもう聞き飽きているかも知れませんが、やっぱっり言うよ。
いつも、ありがとう!
細坪基佳拝