ラーメン食ったどー!
目の前にどんぶりが置かれた途端、
先ずは、お久しぶり「ラーメン写真」を
撮ろうと思っていた事もすっかり忘れて、
レンゲで数杯「ズズーっ!」とスープをすすってしまった。
私はホントにラーメンが好きなんだなぁとつくづく思う。
スープは非常に熱かった!
上顎の薄い粘膜がやけどしたのが分かった。
ラーメンスープのやけどは、美味しい証なのだ。
ぼくが生まれた沼田町には駅前食堂を含めて「街の食堂」が
3軒あった。そのうちの一軒が「母の実家」の「北条食堂」だ。
小中高の学校帰りに寄っては、おやつ代わりに「麺」を
好きなだけ食べていた。
当時は鍋焼きうどんが好きで鍋焼きの具を勝手に山ほど乗せて、
「マイ鍋焼きうどん」を作って食べていたので、
札幌の貧乏学生時代になってから、奮発して有料の
鍋焼きうどんを食べた時の印象は、「値段がはる割りには
ずいぶんしょぼいもんだなぁ。」というものだった。
私の実家は駅前旅館、宿の主人の「おじじ」は、
頻繁に夜泣きする私を抱いて困り果てている母に
お客に迷惑だから黙らせろと言って叱りつける。
吹雪の夜でも旅館の外に出て私をアヤしていたらしい。
私の「声帯」はその時に鍛えられたのだ。ん?
ある夜、なかなか泣き止まない私を連れて、
二丁ほどは離れた実家の食堂まで来てしまった。
泣き続ける私に「おばば」は、うどんを一本口にいれた。
するとあんなに泣いていたのが嘘のようにピタリと
泣き止んだらしい。
以来、夜泣きするたびに母は私を背負って実家に戻り、
私の口にうどんを放り込んだらしい。
「もとよしぃ、あんたはホントに夜泣きする子でねぇ。」
で始まるこのエピソードを生前、母から27回聞いた。
札幌ラーメンブームの火付け役となった味噌ラーメンを
初めて食べたのは実は「北条食堂」だった。
実家の食堂は縁のあった旭川ラーメンの「青葉」に
教えを受けていた。豚骨と鶏ガラに数種類の野菜、
そして香りのいい煮干しとアジ粉。具には、ネギ、シナチク、
渦巻きナルトと麩に焼豚。ブームが到来する以前の、
昔ながらの北海道ラーメン。中華蕎麦とは別物のラーメンだ。
北条食堂が休みの日、小腹が空いたので何か食えるだろうと
店に顔を出したところ暖簾をしまったガランとした店の厨房で、
おばば、おばちゃん、母の食堂3人組が何やら
理科の実験のような事をしている。
「もっとミリンをたしてみたら?」
「白味噌だけだとなんか足りないわねぇ。」
「ショウガ入れる?ニンニクは?」などどやっている。
「何やってんの?」と尋ねると、
「いまね、札幌でね味噌ラーメンが流行ってるのさ、
だから今度ウチの店でも出そうと思ってね。」
「へぇ~、でもさ、作り方分かるの?」
「だからいまみんなで作ってるっしょ。」
「食べたことあるの?」
「ないけど、食べてきた人に聞いたから大丈夫だべさ。」
子供心にもホントにそれでいいのか?と思った。
何日か後「もとよし、味噌ラーメンだべる?」と母。
見ると食堂の壁に「味噌ラーメン」と書いた
真新しい紙が貼ってあって、ちょっと都会の顔をしていた。
断る訳にも行かず、生まれて初めての味噌ラーメンを食べた。
僕は「青葉」直伝の醤油ラーメンのほうが好きだったが、
この「味噌ラーメン」はブームにも乗って次第に
「北条食堂」の一番人気となっていった。
そして僕は、都会の札幌で一人暮らしを始めた。
うどんからラーメンにチェンジしたのは、札幌に来てからだ。
大学一年の初夏、同じ下宿の松橋が旨いラーメン屋さんを
発見したと教えてくれた。僕がラーメンに感動したのは
この「糸末」という店の「味噌ラーメン」だ。170円だった。
ちなみに学食のうどんは35円だったと思う。
それ以来、ここ札幌で本場「札幌ラーメン」の名店を
探し出してはお金と時間を見つけて通い詰めることになる。
デビューして全国のラーメンを食べ歩くようになってからも、
僕の中で「札幌ラーメン」が一番だと思っていたが、
ギトギト豚骨に惚れ、背脂、鶏白湯に魅せられ、いつしか
ふるさとの旭川ラーメンの味に戻り、ラーメンとは別物だと
思っていた「中華蕎麦」に心が動くようになってゆくのだった。
コロナのお陰で絶っていた外食ラーメンを久し振りに
食べる段になり、一軒を選ぶとしたら、さて
どの店にしたものかと考え尽くして(大げさではない)
たどり着いたのは、札幌ラーメンでも豚骨系でもなく
「中華蕎麦系」であった。
なるほど店の味も、ラーメンの好みも
人は年齢を重ねながら変化してゆくものなんだなぁ。
今は全国各地の美味しいラーメンをどれも愛しているが、
一周まわって私の中での一番は
「おふくろの作ってくれたあのラーメン」かもしれない。
味噌でなく・・・・醤油ね。