満塩さんが地元の方に聞いてくれて、ある逸話を知る。
7世紀ころ、この地に天智天皇の庵があった。
ある日そこを訪ねた天智天皇に女酋長と下女が、
丁寧に編んだ布を贈った。
「上の者も下の者も同じように篤い志を持っていることよ」と
天智天皇がいたく感心したので人々はこの土地を
「志布志」と呼ぶようになった。
・・・微妙。
天智天皇といえば時の権力者蘇我馬子、入鹿親子を
藤原鎌足と共謀して暗殺し、大化の改新をもって日本を
中国に倣った律令国家の礎とした中大兄皇子その人だ。
「白村江の戦い」で朝鮮出兵はしたけれど、
鹿児島にまで行幸した話は聞いたことがない。
奈良の都で忙しく国家統一の仕事をしている天皇が、
鹿児島の大隅に「庵」など作るだろうか?
まして時折滞在する事などあるのだろうか?
調べてみた。
すると何と鹿児島には天智天皇の逸話がとても多いことに気付く、その上天智天皇を祭神として祀る神社がたくさんあった。
愛する人を追って奈良の都からやって来て開門岳の麓で
ふたりは幸せに暮らしたという伝説もあった。
細坪教授の指触が動き始めた!